1950年代、一躍脚光を浴びた前衛作家芥川紗織の生誕100周年を迎えた今、展覧会「芥川紗織:烈しいもの。燃えるもの。強烈なもの。」をNUKAGA GALLERYで開催します。

NUKAGA GALLERYでは、2024年5月20日(月)から7月3日(水)まで、展覧会「芥川紗織:烈しいもの。燃えるもの。強烈なもの。」を開催し、その短い生涯で残した貴重な作品たちを展示いたします。

 

NUKAGA GALLERYは5月20日(月)から7月3日(水)まで、展覧会「芥川紗織:烈しいもの。燃えるもの。強烈なもの。」を開催いたします。本展では1950年代初頭から前衛作家として注目され、1966年に41歳で急逝し生涯を終えた作家の代表作からドローイングなど、約15年の短い画業の中で独自の表現を求めてエネルギーを燃やし続けた芥川によって生み出された作品を展示します。

 

技法より技法をつきやぶってあふれるものが大切。なにしろ個性を画面にのたうちまわらせる様にしようと思う。完成されたものを求める必要は少しもありはしない。烈しいもの。燃えるもの。強烈なもの。
(芥川紗織日記 1954年4月)
 

生誕100年を迎えた今年、芥川紗織に対する再評価の機運が高まってきています。日本各地の美術館ではこの機に収蔵作品を特別展示し、また海外の美術館でも戦後現代美術を代表する作家の1人として作品を収蔵し始めています。
芥川紗織は、1924年、愛知県に生まれ、1947年に東京音楽学校(現東京藝術大学)声楽部に入学し音楽家を志しますが、在学中に同級生の芥川也寸志(後、作曲家)と結婚、家の中で二人の音楽家は難しいとの要請を受けて音楽家への道を断念します。
しかしながら自らの表現への渇望は癒しがたく、高等女学校時代に描いていた絵画表現への道を、歩み始めることとなりました。

 



芸術とは何なのかしら、何のために私は絵を描たりするのかしら、時々こんな気持ちが私を覆う様になった。でもそれでいいのだと思う。私はとても幸福ですから、私は胸の中に炎を抱いて居ります。常に何かを燃やし続けなくては私自身が冷たい灰になってしまう様です。
(芥川紗織日記 1953年11月)

 

1955年には岡本太郎に選出されて「二科会」の第九室、即ち「九室会」に出品し、「特待賞」を受賞して一躍、新進気鋭作家たちの旗手の一人として注目を浴びることとなります。

当初は「女」をテーマに作品を描いていましたが、やがて「民話」や「神話」に題材を求め、原初的イメージ溢れる染色画を発表するようになります。それは独創的な大作「古事記より」(1957年制作 176 x 1346 cm 世田谷美術館蔵)へと行き着きます。

しかしながら、芥川也寸志とのひずみは大きくなるばかりで、1957年に離婚し、その後渡米、ロサンゼルスのデザイン学校に一年学んだ後、ニューヨークへ移動し美術学校「アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク」にて抽象絵画を志向するようになります。
1962年に帰国後、抽象絵画を発表し始めます。その翌年には共に渡米した建築家、間所幸雄と結婚しました。

 

寒くも熱くもなく、まぶしいばかりの新緑の候、絵の勉強がどんどんはかどっている。私の喜び、私の理想の生活、私は長い長い間こんな生活を夢見あこがれつづけていたのだ。やっと鉛筆のラインがのびのびと描けるようになって来た。
(芥川紗織日記 1965年5月15日)

 

1966年1月31日、芥川紗織、妊娠中毒症にて41歳の若さで急逝。
本展では、このような芥川紗織の初期油絵から染色画、抽象絵画に至るまで、そしてドローイングも含めた作品の内から選定し、足跡の全体像が掴めるような展観となっています。
この機会に、その屹然とした生き様と一体化された強靭な絵画表現を、是非ご高覧くださいますようご案内申し上げます。

※芥川紗織日記:「芸術生活」1973年9月・26巻9号 所収より抜粋

 

 

■開催概要
「芥川紗織:烈しいもの。燃えるもの。強烈なもの。」
会期:2024年5月20日(月) ー 7月3日(水)
開廊時間:10:00ー18:00(月ー金) ※土日祝休廊

■会場
NUKAGA GALLERY
〒104-0061 東京都中央区銀座2-3-2 エイコー銀座ビル 3F
アクセス:JR「有楽町駅」から徒歩約3分、東京メトロ有楽町線「銀座一丁目駅」から徒歩約1分

 

■アーティスト
芥川紗織 Saori Akutagawa

芥川(旧姓・山田)紗織は、1924(大正13)年、愛知県渥美郡高師村(現・豊橋市)に生まれる。東京音楽学校(現・東京藝術大学)本科声楽部を卒業後、作曲家の芥川也寸志と結婚する。しかし、結婚後は、家で歌を歌うことを遠慮し、声楽の道をあきらめる。そして彼女は、女学校時代に描いていた絵画を再び始めるのである。猪熊弦一郎の研究所に通って油絵を、ろうけつ染めを野口道方について学ぶ。
1953年、赤穴桂子のすすめで第17回新制作協会展に出品するが、入選はせず。
1954年、第6回日本アンデパンダン展に出品。第4回モダンアート協会展に《女》などを出品、新人賞受賞[3]。女流七人展を安部真知、織田リラ、小串里子、オノサトトモコ、草間彌生、森慧と開催。夫とともに中国、ソ連、東欧を数か月旅行する。この時のソ連訪問がきっかけとなって民話をテーマに作品を手がけるようになる。
1955年、岡本太郎の勧めにより、吉仲太造、藤沢典明らと共に二科会に移る。第40回二科会岡本太郎室(第9室)に《女B》、《女XI》等の染色を出品して特待賞受賞。9月にメキシコ美術展が開催され、感銘を受ける。「前にタマヨの絵を美術雑誌の原色版で見て、そのまか不思議な色彩にひどく惹かれました」と発言。村松画廊で個展を開催し、《民話ククノチ》と《イザナギノミコトの国造り》を出品。神奈川県立近代美術館の「今日の新人・1955年展」に《入水する弟橘比売命》《天をつきあげるククノチ》を出品。
1956年、サトウ画廊で行われた第1回4人展を池田龍雄、河原温、吉仲太造と開催。岡本太郎が主宰する「現代芸術研究所」のメンバー(芥川、難波田龍起、福島秀子、藤沢典明、建畠覚造、吉仲太造)が呉服問屋からの注文で、浴衣をデザイン、販売される。二科春季展に《大木ニハサマレタ若い神》を出品。第41回二科展に《神話 神々の誕生》を出品。第2回4人展を池田龍雄、河原温、吉仲太造と開催し、《神話より》を出品。
1957年、村松画廊で第3回個展を開催し、《古事記より》を出品[8]。芥川也寸志と離婚。
1958年、伊勢湾台風の荒れ狂う中、アメリカに出発。ロサンゼルス・アートセンタースクールにてグラフィックデザインを学ぶ。ロス・カウンティミュージアム公募展に入選する。
1960年、ニューヨークに到着。第14回女流画家協会日米交歓展(ニューヨーク・リバーサイド美術館)に桂ユキ、村尾隆栄、草間彌生とともに在米出品者として参加(山田紗織の名で)。ニューヨーク、アートステューデントリーグのウィル・バーネット教室にて油彩を学ぶ(1962年まで)。
1962年帰国。昭和画廊で第4回個展を開催し、渡米中の作品を出品。
1963年、第17回女流画家協会展に《黒いシェープB》を出品。建築家・間所幸雄と結婚。
1965年、第19回女流画家協会展に《スフィンクス》を出品。
1966年、妊娠中毒症のため病死。

 

■お問合せ
NUKAGA GALLERY
EMAIL: info@nukaga.co.jp URL:www.nukaga.co.jp
TEL +81(0)3 5524 5544 / FAX +81(0)3 5524 5543

 

【株式会社ぬかが】プレスリリースより

 

 

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